子供は先生となるだろう」「豆は丸くて、まん丸い、生まれる子供は科挙の試験に合格するだろう」と歌う。このようにめでたい文句を並べて新郎新婦の結婚が大いに幸せで、立派な子供をたくさん産み育てることを歌って耳支歌の次第は終了する。
耳支歌が終ると人々は野外へ出て喜神を祀り、その場で先刻使用した道具や演出用品を焼却し、神霊に演者たちの平安無事なことを祈る。
耳支歌の上演で第一部披露宴での演技から悪鬼災難の追送の意味合いがあり、それは一種古風な追儺ではあるが、追儺祭式の形式や追儺舞踊の特色を有するものとは認め難い。しかし後の部、つまり夜の演技は招福祈願であり、特に生殖の盛んになることを祈るものである。演技次第の中に「田家楽」の要素(登場人物の春官、貨郎、勾引等の役)が加わっているが、この部分の役目は、閙房の部分を際立たせることであり、賑やかな雰囲気を盛り上げることである。主な内容は、やはり四人の耳支の生殖話に関連した演技であり、しかもこの演技は(田家楽をも加えて)、明らかに追儺劇の特徴を有しているといえる。
ペイ族の耳支歌について我々は次のようないくつかの問題を指摘することができる。?雲龍県ペイ族の耳支歌を貴州省威寧章イ族の「撮村姐」、それに雲南省楚雄州双柏県イ族の「跳老虎」はいずれも多くの相似点を持っている。人類の起源、生殖、繁栄といずれも関わりがある。?雲龍県イ族の耳支歌全体からはペイ族文化の中に今なお追儺文化の痕跡が遺存しているとはいえない。?雲龍県ペイ族の耳支歌から「田家楽」と追儺が密接な関係を有しているとみることができる。
行儺逐疫を演じる吹腔儀礼
吹吹腔はペイ族の民族劇であり、専門家の考証によると明代に伝来した弋陽腔の基礎の上に発展したものである。雲龍県はペイ族吹吹腔の主要な発祥地であり伝承地の一つである。雲龍吹吹腔は吹腔戯南派の代表であり、大変古い歴史を持っている。何世代もの古い昔から伝承されて来た吹腔戯を歌い演ずることが今なお山村で続けられており、例えば最新郷の簣干村、大達村、旧州郷の湯邸村、下嶋村、上句尾村においてである。簀干村の古老の教えによれば、当村の芝居一座は二百年の歴史があるとのことである。一九八五年雲龍県文化館は当村で清代光緒年間に描かれた臉譜(俳優の顔のくまどり)一揃いを収集した。臉議の中には生、旦、浄、末、丑の各種役柄が全部揃っており、まさに老乏人の話は荒唐無稽のものではなかったことが解る。
吹腔戯一座奉仕する戯神
一九四九年以前、簀干村吹腔戯一座は気ままに上演できたわけではなく、一般には一年に一度、正月の本主の誕生日の縁日にだけ、廟の中で三日三晩本主の為に演じられた。ふだんの日は、特別に人や家畜の伝染病が流行したり、洪水旱魃など甚大な自然災害に遭遇した時にのみ演じられる。この習俗は主に神を和めることであり、その目的は前者の場合は、吉祥祈願で、神に一年の平安無事、五穀豊穣、家畜の繁殖を祈るものである。後者の場合は悪疫退散で、神に悪霊悪疫を追送し、災難からのがれることを祈る。この習俗は、古代の「行儺逐疫(追儺を執り行って悪疫を追送す)と同じであり、ペイ族文化に伝えられた追儺儀礼である、
この点は長郷即大達村の吹腔戯習俗の中に明らかな証拠を見い出すことができる。
大違村は正月一日に本主仏像および観音等天神地神の兄弟姉妹神の像が付回りする時に祭り奉られ、その神を和めるための主要行事が吹腔戯上演である。本主を迎える前日の十二月三十日の朝、行事全体を執りし切る会首が紅色の大きな招待状を書いて芝居師匠の家ヘ送る。そこには「××先生、時まさに新春
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